大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫
出版しました。
大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫
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大阪市立大学時代の森の動向がほとんど報じられていないのは、彼が学生運動の実績がないからである。学生生協で働いていた。フルタイムである。生協の事務所は専門部にあるので、森を学生運動の主戦場である教養部キャンパスで見かけることがほとんどなかった。連合赤軍事件で仲間をリンチするとき森はあたかも自分が歴戦の活動家のように振る舞った。
活動しておればその痕跡があるが活動していないので痕跡がない。何かをしていたと証明することはできても何もしていないことを証明することはかなりむずかしい。当時の学生新聞を精査し森が出てくる場面を探したが、何もなかった。当時の学生運動では学生自治会が大きな権威を持っていた。学生運動のリーダーになろうと思えば、自治会の執行委員になることが必至であった。自治会が機能していたので多数派、少数派にかかわらず、多くの時間を自治会室で過ごした。各派が毎日顔を合わせるのは当たり前だった。活動しておればお互い必ず顔を会わせていた。個人生活の内面まではわからないが、政治活動をしている限り、党派は違ってもかなり接触していたと言える。
森が市大学生運動と無関係であったことを証明するため市大新聞の記事を使い自治会選挙の立候補者、当選者を毎年調べ公表した。彼の名前はどこにもなかった。この調査に相当な時間を使った。大阪公立大学杉本図書館に50年前の市大新聞がなかったら不可能なことであった。何故このように森が学生運動で何もなかったことを一生懸命証明しようとしたのか。それは後のリンチ殺人事件へと爆発する彼の鬱積した気持ちが長く押さえつけられていたことを証明するためだった。
「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」の内容
内容は
第1章 市大学生運動グラフティ
第2章 市大民学同外伝
第3章 大阪市立大学民主主義学生同盟年譜
第4章 市大入学後の森恒夫
第5章 なぜ12人もの仲間を殺したのか
第6章 赤軍派とは
第7章 共産党、民青、共労党の査問の実態
第8章 まとめ 失敗をひきうける
連合赤軍 森恒夫を誰が社学同にオルグしたか
安永さんという社学同の長老がいた。オルグの名手で、構造改革派の革新グループを支持していた森恒夫を一晩で宗旨替えさせ主流派に引き込んだ人だ。痩せて細長く浅黒い風貌で仙人のような雰囲気があった。私もこの人のオルグを受けた。レーニンの「国家と革命」という冊子を活用していた。レーニンは「国家とは、階級対立が解消できない状態にあることの帰結であり、反映でもある。る。「国家というものは特定の階級の支配機関であり、その階級は敵対する階級に対して融和的な態度なぞ取りようがない」革命においてプロレタリアートは「官僚・軍事国家機構を粉砕する」「資本主義社会と共産主義社会との間には、前者が後者に革命的に変化していく期間がある。政治的移行期も、この時期と並行している。そして、この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のものにはなりようがない」その冊子は返すのでなくプレゼントされる。「国家と革命」を読むと暴力革命以外にはないと思わせる迫力がある。森恒夫もこの冊子を読まされ、構造改革でなく暴力革命が必要だと納得したのだろう。安永さんのオルグを受けていた私は9月の民学同結成大会に勧誘されなかった。安永さんが考えた大学祭のテーマは「ここではない場所への行為」であった。社学同の雰囲気をよく表していた。民学同は「この場所でこそ、地を這う論争を」であった。
教養部に生協食堂がある。入口を入り振り返って見上げると天井近くに細長いスペースがある。そこに各派が順番に政治ポスターを張り出していた。民青が教養部の食堂の壁に張り出したポスターで、全学連委員長の唐牛健太郎が右翼の田中清玄からお金をもらったことなどを批判した。それに対し安永さんは誰からもらおうと「金は金だ」と開き直った。唐牛健太郎は市大にオルグに来て5人の市大ブントを作った人だ。(唐牛健太郎の生涯は佐野眞一著「唐牛伝」を参照ください。)
当事者の回想を読むと田中清玄とブントの創始者島成郎は岸内閣打倒で意見が一致し田中からのカンパを受け入れたという。年間学費が9000円に時代にバス1台借り上げが7000円だった。早稲田だけでも二、三十台必要だった。何万人もの移動の足をカンパでまかなっていた。当時の食堂は今もあるが、壁には政治ポスターはなかった。(「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」88頁所収)
「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」は大阪公立大学杉本図書館、大阪府立図書館を始め北海道、山形、東京都、長野、京都府、高知県、岡山県、福岡県、沖縄県などの図書館でも読むことができます。大阪市立図書館、摂津市立図書館にもあります。模索舎、名古屋ウニタで販売しています。
写真は小川プロダクション「三里塚の夏」に映り込んでいた森恒夫
大阪市立大学学生運動グラフティ10頁
7頁コラム1
樺美智子の恋
樺さんは口数少く物静かであったが芯の強い人で、黙々と山程あった事務を背負ってこれをこなしていた。或る日、余りお喋りもしなかったその彼女が事務所から出ようとした私を追ってきて突然、「島さんは大人だから相談したいのですが、私、想いを寄せる人がいるのです……」と話しかけてきたことがある。不意のやや古風な告白に私の方がドギマギして「一体誰と……」と訊いた所、口ごもるように「Sさんです……」といって顔を赤らめたまま逃げるように事務所に入っていってしまった。……その後一度もゆっくり話す機会のないまま過ぎ、やがて彼女は東大に戻り文学部自治会副委員長となり学生運動に専念したために、彼女の想いがいかになったか知る由もなかったが、あの六・一五での死をきいた時、私のなかに強く浮かび、その後もずっと離れることのなかったのはあの時の彼女の胸の内であった。(島成郎 ブント私史)
「ただ許されるなら 最後に 人知れず 微笑みたいものだ」(樺美智子の遺稿集より)
※樺美智子さんの思い人を知りたくなったら、江刺昭子著「私だったかもしれない」参照下さい